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アメリカントラッドの雄、Ralph Lauren(ラルフローレン)の魅力と歴史などをご紹介!

言わずと知れた、アメリカを代表するラグジュアリーファッションブランド「Ralph Lauren(ラルフローレン)」。以前、広告会社が行なった調査によると、日本人の間でのブランド認知度はなんと9割近くにも達したとのことです。ポニーに乗ったPOLO(ポロ)選手のロゴマークのイメージが強いため、初心者はどのアイテムも「ポロラルフローレン」というブランド名だと思い込んでいますが、じつは「ポロラルフローレン」というのはメンズの1レーベルにすぎなかったりします。

1968年に青年のラルフ・ローレン氏が5万ドルの借金を元手にはじめたファッションビジネスは、いまや紳士服から婦人服、子供服、バッグ、シューズ、ペット用品、時計、香水、化粧品、インテリア、さらにはレストランやリゾートホテルまでを展開する一大ファッション王国となりました。同ブランドが提案しているのは、クラシックなアメリカらしいライフスタイル。そして、その「アメリカらしさ」そのものさえを定義したのです。

再び、人気を集める「アメリカらしさ」への気運

2008年の北京オリンピック、2010年のバンクーバーオリンピック、2012年のロンドンオリンピック、続いて先の2014年のソチオリンピックと、ラルフローレンは4大会連続で五輪アメリカ代表チームの公式ユニフォームを担当しました。それほどまでにラルフローレンはアメリカの象徴ともいえる存在として見なされているのです。

では、そんなラルフローレンが目指す「アメリカらしさ」とはどんなものなのでしょうか。それは、英国貴族の流れを汲む1950年代~60年代の「アイビーリーグスタイル」だと、しばしば指摘されています。後に「ゴールデン・エイジ(黄金期)」とも呼ばれるほど強く誇り高くアメリカが繁栄を極めた時代におけるエリートたちのライフスタイル・・・それこそがラルフローレンが追い求めてきた理想像といえるのでしょう。

近年、アメリカ国内でもラルフローレンの描く世界観は年々支持を集め、会社の時価総額(株価)もこの10年で6~7倍にも跳ね上がっています。「くだらないモノが溢れる社会の中で、シンプルでエラガントなクラシックなものに囲まれていたい」そんな人たちが増えているからだとも言われているそうです。

億万長者を目指した少年の夢から始まる物語

デザイナーのラルフ・ローレン氏は、1939年10月14日にニューヨークのブロンクス区で生まれました。ユダヤ系ロシア移民の両親を持ち、父親の職業はペンキ屋。ブロンクス区は高級住宅街とは対極のような場所で、小さなアパートに家族6人で慎ましく暮らしていました。元々はRalph Lifshitz(ラルフ・リーベンツ)という名前だったのですが、16歳のとき父親がファミリーネームをアメリカ人らしい「Lauren(ローレン)」に変更します。

翌年、ラルフ少年はウエイターのアルバイトを始め、そこでブロンクス区以外の世界、金持ちたちの世界を垣間見ることになるのです。彼は憧れました。でも彼の家には高校卒業後、アイビー・リーグのような名門大学へ通わせる余裕はありません。卒業文集の将来の夢を書く項目に、友人たちが薬剤師になりたい、科学者になりたい、医者になりたいなどと綴っていた中、彼はただひと言「ミリオネア(富豪)」とだけ記したのでした。

POLO誕生までの下積み時代

高校卒業後、ラルフ氏はニューヨーク市立大学の夜間部に通うことになりました。学問にはまったく身が入らず、せっせとバイトしてはブルックス・ブラザーズやポール・スチュアートのお店に足を運ぶ毎日。2年後には落ちこぼれてしまい、退学して、友人の働く憧れのブルックス・ブラザーズに短期間だけバイトします。それから当時は徴兵制が残っていたので兵役につき、除隊後は手袋メーカーの配送係、ネクタイメーカーの営業などを転々し、ある日ネクタイの企画に携わるチャンスに恵まれます。ラルフ氏が提案したのは幅広のネクタイでした。しかし、「よだれかけのようだ」とのことで不評に終わりました。

まだまだ若く自信過剰だったラルフ氏は、失望して会社を辞め、それからあちこちの有名ファッション会社に自分を売り込みますが、ことごとく失敗します。理由は、彼のビジネスマナーがトンチンカンで失礼極まりなかったからでした。ですが、遂に1968年、ネクタイメーカーのボー・ブランメル社の社長に目をつけられ、同社のバックアップのもと自身のブランド「POLO」を立ち上げます。金とステイタスの象徴であるスポーツ「ポロ」にちなんで名付けられました。

徐々に広がる成功の波紋

正直、ネクタイブランド「POLO」は最初から信奉者がいたわけではありません。当初は多くのファッション業界関係者でさえ、奇抜なデザインの幅広のネクタイと通常の3倍以上の価格を見て「なんだこれ?」って感じだったのです。それでもいきなり雑誌「プレイボーイ」の編集者に気に入られたことは幸運でした。デビュー間もなく全国誌に取り上げれ、初年度から一気に売れまくります。そして名門デパートのブルーミングデールでも取り扱われ、同デパートの目玉商品になっていきます。また、会社「ポロ・ファッションズ」の登記も、紳士服への進出も、1968年の出来事でした。

それからは怒涛です。1970年にはファッション界のアカデミー賞とも称される「コティ賞」を受賞。71年にシャツと婦人服へ進出。74年には映画「華麗なるギャッツビー」の衣装を担当。78年には香水、83年には陶器とテーブル用品と家具をスタート。続いて86年にはマンハッタンに大型の旗艦店をオープンと怒涛の勢いでビジネスフィールドを拡大していきます。また一方で1980年代にはライセンス事業を開始して一気に世界に広がりました。1970年当時、デザイナーは職人的にデザインを手がけるのが当然で、ラルフ氏のようにマーケティング的発想を持っている人は少なかったそうです。

栄光から挫折、そして復活へ

順風満帆だったPOLOビジネスは、1990年に湾岸戦争の火蓋が切って落とされると、急速な景気後退と共に苦境に立たされることになります。取引先の百貨店が相次いで倒産し、「もうダメぽ」という状態に陥りました。1993年には株式の約3割をゴールドマン・サックスへ売却する羽目になります。後日、ラルフ氏は「このときが人生で最大の苦渋の決断だった」と回想するほどでした。

終戦後、クリントン政権下で「双子の赤字」が一時的に解消されていくにつれ、ファッションブランド「Ralph Lauren」も立ち直っていきます。その弾みで、1997年にはゴールドマン・サックスに導かれ、株式公開も果たします。一夜にして5億ドルを手に入れたラルフ氏と2億3000ドル余りを得た会社は有頂天となって翌年には早くも業績を下方修正。同時期に人種差別問題でも訴えられ、一気に株主と世の中からの信頼を失い、株価は大暴落しました。

そこからは大反省です。社外に人材を求め、経費削減に乗り出し、合理化を進め、マーケティングを練りなおして、さらなるラグジュアリー路線に舵を取り、ブランドは生まれ変わっていきました。21世紀に入ると、ブランドは再編され、業績はまた右肩上がりで推移していきます。

変わらない永遠のトラディショナル

デザイナーはアーティストと考えるヨーロッパのファッション業界では、マーケティングに長けたラルフ氏は一流のデザイナーというよりも一流のマーケッターとして見なされているそうです。あくまでアイデアを持ったスタイリストぐらいの評価で、クリエイターではないとされています。評論家たちも「ラルフ・ローレン氏はデザインの天才ではなく、イメージを売る天才」などと語る場合も少なくありません。

確かに、ポロシャツは元テニスプレーヤーのルネ・ラコステ氏の考案です。ボタンダウンシャツも、ブルックスブラザーズ創始者のジョン・ブルックスが考案しました。ブレザーだって、丸首セーターだって、ノーフォークジャケットだって、ローファーだって、「ラルフローレン」の発明ではありません。それでも、それらは「ラルフローレン」というブランドの世界観の中だからこそ、大きな輝きを保ちながら現代に受け継がれているのではないでしょうか。逆に、「ラルフローレン」の構成要素でなければ、時代と共に風化していったのではないでしょうか。

まるで「デザインしないことこそ、デザイン」と言っているかのような、永遠のトラディショナル。誰もが憧れる輝かしい古き良きアメリカらしさ。その根源に流れている、イギリス上流階級の不朽の規範(スタイル)。それこそが「ラルフローレン」の真髄なのかもしれません。

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