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ストリート・ウオッチング(日暮里ストリート)

【街の歴史】
日暮里エリアは、西側に高台(人類にとって住みやすい)があることから、古くから人が居住し、縄文・弥生時代の遺跡も見つかっている。室町時代の古文書にも「新掘(にっぽり)」という名で記され、小田原の北条氏の家臣である遠山氏が領土としていた。江戸時代には、“雪月花”の風流を一日中楽しめる「日暮しの里」として多くの文人墨客や江戸庶民に愛されるようになり、やがて名前も「日暮里」となる。風流の代名詞である「雪月花」は、それぞれ通称を持ったエリア内のお寺『雪見寺(浄光寺)』『月見寺(本行寺)』『花見寺(青雲寺・修性院)』にその名残が残されている。

1905年、「日暮里駅」が田端駅と上野駅の中継地点として誕生した。それからまもなく大正初期に入ると、浅草にいた繊維問屋や裁落業者などが日暮里に大移動してくる。ちょうどその頃、浅草寺の門前町として栄えていた浅草エリアには、演芸場や劇場等が建ち並ぶ一大歓楽街になり、追い出されてしまったからである。ちなみに浅草は、大正末期には「松竹」が本格進出して有楽町の「東宝」と覇を争った。その後しばらく、日暮里の繊維問屋は、主に神田(岩本町)や日本橋(掘留)の大問屋、和歌山の染工場や大阪の紡績工場から仕入れた2級品・見切り品・余剰のハギレなどを中心に扱っていた。しかし、バブル崩壊後の1990年代、専門学校の先生から「生徒に生地を売って欲しい」という打診を受け、一般小売にも進出。Tシャツ77円といった超激安アイテムが注目され、マスコミでも取り上げられるようになった。以来、地元一丸となって「原宿を越えろ」と街をあげて日暮里のファッションタウン化に力を入れるようになる。

なかでもブームの火付け役となったのは、『ニポカジ』の名を広めた流行学研究所の宮本悦也氏が運営していたショップ「ニポカジスタイリスト」である。流行のアイテムを予測し独自のルートで安く仕入れ売る、という手法により、「渋谷原宿と同じものが半額で買える!」と評判となった。現在、残念ながら「ニポカジスタイリスト」は撤退したが、いまだにつづく不況の中「日暮里繊維問屋街」は元気だ。なお、メンズウェアは『OUTLET MEGA STORE メンズ館』で手に入るので行かれたし。

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